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ディカーソン (駆逐艦) : ウィキペディア日本語版
ディカーソン (駆逐艦)

ディカーソン () は、アメリカ海軍駆逐艦ウィックス級駆逐艦の1隻。艦名は1834年から1838年まで、アンドリュー・ジャクソンマーティン・ヴァン・ビューレン大統領のもとで第10代のアメリカ合衆国海軍長官を務めたマーロン・ディカーソンにちなむ。'') は、アメリカ海軍駆逐艦ウィックス級駆逐艦の1隻。艦名は1834年から1838年まで、アンドリュー・ジャクソンマーティン・ヴァン・ビューレン大統領のもとで第10代のアメリカ合衆国海軍長官を務めたマーロン・ディカーソンにちなむ。
==艦歴==

===駆逐艦時代===
ディカーソンはニュージャージー州カムデンニューヨーク造船所で1918年5月25日に起工し、1919年3月12日にJ・S・ディカーソン夫人によって進水、艦長F・V・マクネアー中佐の指揮下1919年9月3日に就役する。
竣工後、ディカーソンは東海岸カリブ海を中心に行動し、艦隊に加わって、カヤオおよびバルパライソといった南アメリカの諸港を訪問したこともあった。1921年にはハンプトン・ローズにおいてほかの大西洋艦隊の諸艦艇とともにウォレン・ハーディング大統領の巡視を受けた。1921年11月にブルックリン海軍工廠に入渠後、そのまま1922年6月25日に退役した。
8年後の1930年5月1日、ディカーソンは現役に復する。再び東海岸とカリブ海での魚雷発射などの演習に参加し、1932年と1933年から1934年の期間は西海岸での演習に参加するためパナマ運河を往復した。西海岸での演習に参加後は東に戻り、1934年5月31日にブルックリン沖で行われたフランクリン・ルーズベルト大統領による巡視を受けたあと、8月からはノーフォーク海軍造船所オーバーホールに入った。オーバーホール後は第19予備群に編入。1935年には訓練飛行隊付属となり、練習艦として海軍予備役兵の訓練に供され、チャールストンフロリダ、カリブ海との間を往復した。
1938年、ディカーソンは大西洋艦隊第10駆逐部隊に配属され、ノーフォークから出港して慣熟訓練を行う新鋭空母ヨークタウン (') の支援を務め、1939年春にはカリブ海において艦隊とともに上陸演習に参加した。ヨーロッパ情勢の緊迫化とともにポルトガルリスボンを拠点とする第40戦隊が1939年夏に編制され、ディカーソンも戦隊に加わるためノーフォークを出港。スペイン諸港を回ってカサブランカから脱出してきた難民の支援や、国務省のための特別任務に従事した。任務を終えたあと、1940年7月25日にノーフォークに帰投した。
本国に戻ったディカーソンは1940年10月まで、フロリダ州キーウェストコネチカット州ニューロンドンで第2潜水戦隊の支援にあたり、以降は第二次世界大戦勃発に伴う中立パトロールのためカリブ海に出動し、1941年10月までその任務にあたった。その間の9月には商船リビー・メインの生存者6名を救助し、真珠湾攻撃によるアメリカの大戦参戦後の1941年12月から1942年1月には、ニューファンドランド島を拠点にアイスランド行の輸送船団の護衛に任じる。1942年3月19日、ディカーソンは船団護衛中に不運なトラブルに巻き込まれる。前日の3月18日にディカーソンは、Uボートによって撃沈されたタンカーの乗組員を救助してノーフォークに向かったが、3月19日に沖にいたったところで味方の輸送船リベレーターがディカーソンを敵と勘違いして誤射し、ディカーソンは砲弾の命中で艦長J・K・レイボルド少佐を含む3名が死亡、6名が負傷してディカーソンは修理のためノーフォークに急行した〔ディカーソンを損傷させたリベレーターは、その日のうちにUボートに撃沈された()。〕。損傷復旧後は8月までノーフォークとキーウェスト、8月から10月にはキーウェストとニューヨーク、10月から1943年1月まではニューヨークとキューバの間において船団護衛にあたった。
1943年の上半期、ディカーソンはカリブ海とジブラルタルおよびアルジェの間でタンカー船団の護衛を行う。その後は護衛空母カード (') を基幹とする対潜掃討部隊に加わり、7月17日から8月13日の間は北アイルランドロンドンデリーにてイギリス艦隊との合同演習に参加。演習終了後は高速輸送艦への改装を行うためチャールストンに回航され、8月21日にが APD-21 に変更された。) の支援を務め、1939年春にはカリブ海において艦隊とともに上陸演習に参加した。ヨーロッパ情勢の緊迫化とともにポルトガルリスボンを拠点とする第40戦隊が1939年夏に編制され、ディカーソンも戦隊に加わるためノーフォークを出港。スペイン諸港を回ってカサブランカから脱出してきた難民の支援や、国務省のための特別任務に従事した。任務を終えたあと、1940年7月25日にノーフォークに帰投した。
本国に戻ったディカーソンは1940年10月まで、フロリダ州キーウェストコネチカット州ニューロンドンで第2潜水戦隊の支援にあたり、以降は第二次世界大戦勃発に伴う中立パトロールのためカリブ海に出動し、1941年10月までその任務にあたった。その間の9月には商船リビー・メインの生存者6名を救助し、真珠湾攻撃によるアメリカの大戦参戦後の1941年12月から1942年1月には、ニューファンドランド島を拠点にアイスランド行の輸送船団の護衛に任じる。1942年3月19日、ディカーソンは船団護衛中に不運なトラブルに巻き込まれる。前日の3月18日にディカーソンは、Uボートによって撃沈されたタンカーの乗組員を救助してノーフォークに向かったが、3月19日に沖にいたったところで味方の輸送船リベレーターがディカーソンを敵と勘違いして誤射し、ディカーソンは砲弾の命中で艦長J・K・レイボルド少佐を含む3名が死亡、6名が負傷してディカーソンは修理のためノーフォークに急行した〔ディカーソンを損傷させたリベレーターは、その日のうちにUボートに撃沈された()。〕。損傷復旧後は8月までノーフォークとキーウェスト、8月から10月にはキーウェストとニューヨーク、10月から1943年1月まではニューヨークとキューバの間において船団護衛にあたった。
1943年の上半期、ディカーソンはカリブ海とジブラルタルおよびアルジェの間でタンカー船団の護衛を行う。その後は護衛空母カード (') を基幹とする対潜掃討部隊に加わり、7月17日から8月13日の間は北アイルランドロンドンデリーにてイギリス艦隊との合同演習に参加。演習終了後は高速輸送艦への改装を行うためチャールストンに回航され、8月21日にが APD-21 に変更された。) を基幹とする対潜掃討部隊に加わり、7月17日から8月13日の間は北アイルランドロンドンデリーにてイギリス艦隊との合同演習に参加。演習終了後は高速輸送艦への改装を行うためチャールストンに回航され、8月21日にが APD-21 に変更された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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